[コソボ] コソボ紛争?そんなコソボの暗いイメージからさよなら

[コソボ] コソボ紛争?そんなコソボの暗いイメージからさよなら

モンテネグロ中を周遊した後は、セルビアへと国境を越え、コソボへ。コソボというと記憶に新しいのがコソボ紛争。

セルビア人とアルバニア人との間の民族紛争のイメージから、戦争や危険な印象を受けていた国。行っていなければわからない。

セルビアからコソボへヒッチハイク 珍事件発生

モンテネグロで滞在していたキャンプ場

セルビアのベオグラードに住んでいる人が、ヒッチハイクでモンテネグロからセルビアまで国境を越えるのを助けてくれた。

途中雄大な自然の風景を眺めながらセルビア国境へ。

セルビア国境へ続く橋
国境付近の美しい自然

セルビアの国境まで運んでくれた彼とはベオグラードで再会することを約束し、私はコソボへと向かう。

ヒッチハイク1日目はコソボに入国することはできず、ショトゥヘ(Shotje)という街で日が暮れた。誰かが家に招待してくれるというラッキーは起こらず、郊外の森の中でテント泊することに。

ノビ・パザール セルビア

誰もいない静かな森の中。ぐっすりと就寝していた夜の12:00。周囲にガサガサという物音。誰かが話す声が聞こえてきた。そして、その声がどんどん近づいてきて、テントに何かを投げつけられているようなパサッパサッという音がする。

何か水のようなものをテントにかけられている。はぁ~やばい。なに?酔っ払いの人たち?テントは数人に囲まれているよう。

テントに向かって何か話しかけてきているようなので、しょうがなく外に出る。すると8人ぐらいの子供たちが、そこにいた。数人は松ぼっくりを持っていて、コカ・コーラを持ってるやつがいる。

なるほどテントに投げつけてたのが松ぼっくりで、コカ・コーラをテントにかけていたのか。この状況どう対処しようか。めんどくさい。

彼らの中の一人が英語を話せるので、辛抱強く会話していると「テントの中には一人か?女の子はいないのか?」と聞いているよう。

どうやらここは地元で女の子を連れ込んでイチャイチャするのに使用されている場所のようで、思春期の子供たちが興味津々に深夜パトロールでもしているところ、私のテントを見つけたよう。

テントの中を見せて、一人っていうことがわかると、どこかに騒ぎながら消えていった。あぁ~怖かった。過去から今までで6年間旅していて、たった一度だけ起こった珍事件。

セルビア ノビ・パザール

翌日スコトゥヘでの子供がテントを襲撃してきた悪夢を乗り越え、ヒッチハイクをノビ・パザールへ開始。運良くも1時間程待つと車が止まってくれた。

モンテネグロの一部を含むこのあたり周辺はサンニャ地方と呼ばれイスラム教の人々が住んでいるらしい。高原が広がっており、すごくきれいな風景。次回訪れたときは時はこの辺を周ってみたい。

ノビ・パザールは、社会主義系の退屈な建物が並ぶセルビアという感じではなくまるで小さなトルコ。住んでいる人も90%はムスリムで建物もオスマン帝国風。

ここで名物のマンテイ食べ、アイラン(トルコ風飲むヨーグルト)を飲み、久しぶりのアジアの空気に浸る。

ここからコソボへのヒッチハイクは難しいという事で、ミトロビカ(Mitrovica)まではバスを利用する事にする。誰もヒッチハイカーを連れてコソボの国境を越えたくないという情報を得たからだ。コソボとセルビアの関係を考えたら、そりゃそうか。

コソボ入国 首都プリスティナへ

プリスティナ中心部

昨夜は子供たちのテントへの襲撃もあり、よく眠れなかったのでコソボ国境行きのバスの中では熟睡。国境を越えると山間にポツポツと村があらわれてくる。そしてミトロビカ(Mitrovica)に着いた。

多くの犠牲者を生み出した紛争の影響もあり、この街の北にはセルビア人が。南にはアルバニア人が分かれて暮らしています。コソボ紛争が記憶に新しい国ですが、セルビア人とアルバニア人の対立の背景を簡単に。

コソボは日本の岐阜県ぐらいのサイズの小さな国で、今は国民の9割がアルバニア人です。ですが、アルバニア人が入植してきたのはオスマン帝国がこの地を支配するようになってからの事。以前はセルビア人の土地であったのです。

オスマン帝国に支配される以前の12-13世紀、各地域が諸国の統一を目指し覇権争いを繰り広げる戦国時代。そんな中セルビア人の指導者ステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸国を統一し、セルビア王国を建国しました。

そうセルビア人にとってコソボは「セルビア建国の地」として特別な場所なのです。しかし14世紀末、現在のコソボの地で起こった「コソボの戦い」でセルビア王国はオスマン帝国に敗北し、オスマン帝国に支配されることに。

そんな歴史背景から、セルビア人にとってコソボは「セルビア建国の地」であり、国を失った悲劇の地ともなりました。コソボはセルビア人にとって聖地のような場所なのです。

プリシュティナ 広場

それにも関わらず、オスマン帝国はコソボの地へアルバニア人の移住をすすめ、中世においてこの地はセルビアと結びつけられるが、民族的にはアルバニア人が居住している、という現在の構造が形成されてしまいました。

この背景がコソボとして独立したいアルバニア人と、セルビアの聖地を失いたくないセルビア人との間の争いを生み、後に1990年代のコソボ紛争として悲劇を生んでしまうのです。

セルビアによるアルバニア人の大量虐殺など、泥沼の民族紛争を経てセルビアから2008年に独立を宣言したコソボ。複雑な歴史背景から、現在でも国連加盟国の半数近くの国が独立国としてのコソボの承認を拒否しています。

そんなコソボ。ちょっと危険なイメージを頭に抱えながら、首都のプリシュティナへと開始。待つことたった10分で車が止まる。乗せてくれたのは警察のおじさんだった。

警察だからなーっと思い、きちっとシートベルトを締めようとすると、「そんなものは必要ない。リラックスしろ」と。いやいや警察でしょ。そんなんでいいのかよ(笑)

プリシュティナに到着すると、意外な風景が広がっていた。コソボ紛争のイメージから、崩壊したビルなどが中心部にも残されているのかもと想像していたけれど、そんなものはどこにも見当たらない。

整備された都市の風景が広がる。

街の中にはオスマン帝国時代に建てられたモスクや、ユーゴスラビア社会主義時代の重い雰囲気の建物が。

プリシュティナの中心には、アメリカ第42代大統領の名前に由来して名付けられたビル・クリントン通りと呼ばれる街道がある。NATOのセルビアへの攻撃を決定した彼は、コソボの人々にとって英雄視されている。

この通りには彼の銅像まで建てられている。アメリカ万歳ってか。

プリシュティナはコソボ紛争の影響は外観からはわからないほど、近代的な都市だった。

コソボ人オススメ 旧市街の美しい街プリズレンへ

プリズレンの風景 城塞から

プリシュティナからヒッチハイクでプリズレンへと向かう。コソボでのヒッチハイクは簡単ですぐに車が見つかる。

道中でで何台もの高級車を見た。そういった車のナンバーはスイスやドイツ、イギリスなど。ヨーロッパで一番貧しいと呼ばれている国でなぜ?と思ってドライバーに聞いてみると、

「コソボでは失業率が高いが、家族の誰かが外国で働いたお金で暮らしている家族が多いんだ。高級車は麻薬販売など闇ビジネスで稼いだお金で購入してるんだよ」とのこと。

車に乗せてくれた人はめちゃくちゃ親切で、コーヒーを奢ってくれ、親戚が経営しているチェバビ屋で昼食まで奢ってくれた。村にある彼の家にまで招待してくれた。親切な人々だ。

ヒッチハイク 乗せてくれてありがとう

プリズレンはオスマン帝国時代からの古い旧市街が残る街。ピデが売ってたり、トルコのチャイが飲めたりと、懐かしきトルコを感じさせる。

プリズレン旧市街

今ではオスマン帝国時代の街並みが残る街として知られるプリズレンですが、カトリック教会やセルビア教会も市内に残されています。

それは、中世にはセルビア王国の宮廷が置かれ、政治的中心として繁栄した街であったから。

セルビア皇帝は1343年から1352年の9年をかけて、プリズレンの都市の近くに「聖大天使修道院」を築き、プリズレンの近郊のリビニックは二人のセルビア王が宮殿を置いたほど。

しかしオスマン帝国は1545年にプリズレンを奪取した後、プリズレンの住民は、セルビア人正教徒に変わって、南西や近隣の境から流入したアルバニア人の移民で置き換えられていきます。

さらにコソボ紛争の影響もあり、現在では住民のほとんどがアルバニア人。

プリズレンを訪れて見逃せないのは、丘の上にはプリズレン城塞からの景色。ここから市街を一望出来ます。

プリズレン城塞

特に素晴らしいのが夕暮れ時のプリズレンの風景。思わず時間を忘れて見とれてしまう風景。

街の人々もフレンドリーで良い街だったな―プリズレン。

カウチサーフィンホストのアルミルと

プリズレンに数日滞在した後は、セルビア方面へと再び向かう。ラッキーなことに夕方ヒッチハイクしていたら、日が暮れる前にドライバーが家に招待してくれた。

彼らの家に1泊させてもらい、翌日セルビアへ。ありがとう親切な人々。つくづくありがたく、ラッキーな旅。

おわりに

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